「写真の値段」というものについて考えさせられる今日この頃。
付けられる値段というものが、アート作品、コマーシャルの仕事に対し、その関わる人達がどういう捉え方をしているかをみる一つの指標になるのは間違いない。
「写真あっての@@でしたよ」という考え方を持ってくれる人にとって、写真を撮る人はレスペクトの対象にもなりうると思うし、たとえお金で対価を払えない場合でも、それ相応の人間的繋がりを担保できることが多い。そんな時は嬉しい。
逆に、紙切れ(またはデータ)としての写真がいま必要なだけ、持っている技術(とかデータとか作品)をとにかく今提供してくださればそれでOKというスタンスの人は、その共有する ”時間” の密度も薄くなることが多いし、ノドもと過ぎれば、、という関係になることもあるかもしれない。
とはいえ、関わる人やコミュニティーに対しいろいろな補填を期待することが、そもそも間違いかもしれない。
そもそもこの職業は、はじめからリスキーなものだから(?!)
アート作品の場合、何十万と投資して作るものでも、はたから見れば紙切れ1枚でしかなく、価値を見ない人には、それこそなんの価値もない。
コマーシャルの場合でも、写真を撮る時間というのは 125分の1秒とか、60分の1秒とか、とても短いわけで、それを500回繰り返しても、結局「1日」ということになる。それを「ただの1日」と考えるのか、代わりの効かないスペシャルな1日と捉えるのか、、このあたりは、人それぞれのセンサーの違いが、写真の仕事を得体の知れないものにしていると思う。
「1日」の創造のために費やす膨大な下作業、個人的な時間は、とても「1日」とは呼べない代物であるけれども、その価値を計るはっきりとした物差しは残念ながら用意されていない。(写真家の悩み)
だからこそ結論としては、繊細な人と人との関係性、リスクを互いに共有しようという想いが大切であって、とにかく一緒に腹を切ろうという想いがあるかないかは、大きいと思う。
損はダメ、こちら側はとにかくベネフィットがマスト、写真の中身はあまり大事じゃない、技術があればそれだけでいい、、、では、最終的に見えない何かがくずれていくんだと思う。
でも、大きな話をすれば、リスクが想定外の出逢いや機会を運ぶこともまたあるということ。それを個人的に信じる二人が手をつなげば、なにか大きいものが生まれるスタートになるんでしょう。そういう出逢いを重ねられる人だけが、仕事の真の価値を理解できるんだと思います。
yoshiki