昨年2010年から頻繁に、本当に頻繁に岐阜県に通い続けています。
岐阜県の最南部、「恵那(えな)」という街に。
もともと「ふるさとがえり」(
http://hurusatogaeri.com/)という映画の制作スタッフとして
スチールカメラマンの仕事をするためでしたが、
映画の撮影をきっかきにして、
パーソナルワークの制作も彼の地にて開始しました。
映画の撮影は一足先に昨年夏に終了し、
残すはパーソナルワークの制作のみとなりました。
写真作品の製作期間は1年半を越え、
まだ長期戦まではいかないけれども中期戦の様相を呈してきています。
ここ1ヶ月に仕上がった何枚かのカットは、
これまでやってきた制作に完全にギアが入った状態を証明するような
写真となりました。
頭での印象としては、
今回の作品は本当にパーソナルなもので、
社会的な要素はゼロ。
”日本”という舞台で、自分の審美眼、状況構築力、アドリブセンス、
スタイリングセンス、そして、写真の神様が降りてくるか、、否か、
というレベルでのみ製作に取り組んでいる作品です。
2006年にアメリカから帰国して以来、自分のビジュアルテイストとして
日本という場所でどんな写真を撮ることができるのか悩みました。
「木造の茶」より「レンガの赤」を好み、
「湿り気」より「乾燥」を好み、
「具体的な風景」より「無国籍な風景」を好む自分の写真は、
じめじめした緑が跋扈し、電柱が乱立する日本の風景とは
ビジュアルマッチングができないと悩んでいたのです。
でも、恵那という街に帰ってきて(実は祖父と父の生地であり、
本当に偶然そこで映画の仕事が発生しました)、
長い時間その街と向き合い、ローカルの人達とのエンドレスな
出会いを繰り返すうちに、
自分が得意としていなかった背景としての風景=
湿り気やピュアすぎる緑色、
といったものにもどう取り組めばよいかが分かってきたのです。
むしろ抑えようのない日本的な濃厚なエキスを使って、
その反動で写真を切り取ることができるようになってきました。
僕の脳みそには、
いま完全にロジックがなく、
目の前で起きるビジュアルに対して
瞬間的な ”合致” ”不一致” だけを(確信を持って)
判断する器械となっている気がします。
メッセージも何もありません。
とっても嬉しいです。
こっちの方がいいのかなぁ、、これもなんとなくいいよね、、
というレベルのものがほとんどなくなってきました。
本当にようやく、日本の風土を背景に
力強いものを撮ることができるようになってきました。
心地よい風景写真や、空や山、動物、、
が好みな鑑賞者には、
完全に期待を裏切る作品となります。
でもそれでよいのです。
写真は恵那でのスナップ(作品ではありませぬ**)